櫻井絵里 個展「あなたを揺らす突然のこと」関連イベント
「過去の災害から未来の災害・表現を考える」

2023年9月2日(土)13:00~14:30
新宿眼科画廊 スペースO

3.11後、福島県で伝承活動に取り組む木村紀夫さん、非当事者のアーティストとして福島にコミットしてきた中島晴矢さんをお招きし、異なる立場や場所で経験してきた3.11後の話をお聞きします。 その後にこれから必ずやってくると言われている未来の災害を前に、どのような表現ができるのか考えます。
櫻井絵里(以下、櫻井):櫻井絵里個展「あなたを揺らす突然のこと」の関連イベント「過去の災害から未来の災害、表現を考える」を始めます。 私は3.11の直後にうつ病と診断されて、長い間作品が作れない時期がありました。その後回復して、3.11から10年たった時にアーティストとして活動を始めました。地震を経験したことからキャンバスを(地震に見立てて) 揺らすなどの自然現象を使って絵を描いたり、映像作品も制作しているアーティストです。
続いてゲストのお二人の紹介をさせて頂きます。まずZoomでお話しして頂く木村紀夫さんです。

木村紀夫(大熊未来塾塾長)
1965年福島県大熊町の海沿いの熊川部落に生まれる。45歳で東日本大震災により被災。津波で父と妻、次女を失い、原発事故で故郷を追われる。父と妻の遺体は見つかるが、次女:汐凪(ゆうな)の遺骨の一部発見までに5年9ヶ月を要する。 捜索の傍ら、避難先の長野県白馬にて便利なものに頼らない生き方を追求し、震災の伝承だけでなくこれからの生き方に疑問を投げかけるようなイベントを開催。 現在は福島県いわき市に拠点を移し、中間貯蔵施設内の大熊の自宅後に通い発信をつづけ、自身の得た教訓を次世代に絶やさない未来を町で実現するために日々奔走している。
大熊未来塾Facebook


櫻井:木村さん今日はよろしくお願いします。

木村紀夫さん(以下、木村):はい、よろしくお願いします。

櫻井:今日はご自宅からですか?

木村:残念ながら今日は自宅の方ではなくて…言っちゃっていいのかな、ネットカフェです。(笑)

櫻井:ネットカフェだったんですね!では(福島県)いわき市からですかね。

木村:そうですね、市内から。

櫻井:ありがとうございます。続いて中島晴矢さんのご紹介をさせて頂きます。

中島晴矢(アーティスト)
1989年神奈川県生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業、美学校修了。現代美術、文筆、ラップなど、インディペンデントとして多様な場やヒトと関わりながら領域横断的な活動を展開。美学校「現代アートの勝手口」講師。 プロジェクトチーム「野ざらし」メンバー。主な個展に「東京を鼻から吸って踊れ」(gallery αM, 2019-2020)、キュレーションに「SURVIBIA!!」(NEWTOWN, 2018)、グループ展に「TOKYO2021」(TODA BUILDING, 2019)、 アルバムに「From Insect Cage」(Stag Beat, 2016)など。2022年に初の単著となる『オイル・オン・タウンスケープ』(論創社)を刊行。
Haruya NAKAJIMA ウェブサイト

櫻井:ラップや文筆活動の他に現代アートの制作もされています。3.11のあとは福島に行かれたり、福島に関連する作品を東京でも発表されていたということで、その辺りのお話もお伺いできればと思います。

中島晴矢さん(以下、中島):僕と櫻井さんとの関係でいうと、まず地元が一緒だったんです。田園都市線のたまプラーザ駅。

櫻井:そこまで言っちゃっていいんですか(笑)

中島:実は徒歩5分くらいの近所に住んでいた(笑)。出会ったのは美学校という神保町にある学校です。僕は「現代アートの勝手口」というクラスの講師をやっているんですが、昨年そこの受講生として櫻井さんが来てくださった。「現代アートの勝手口」では夏合宿を毎年やっていて、前回は福島に行きました。その時に木村さんに帰還困難区域である大熊町を案内して頂いたということがあって、今回の座談会につながるわけです。

2022年8月に「現代アートの勝手口」の受講生たちで福島を訪れた。写真は福島県富岡町夜ノ森周辺。

2022年8月に「現代アートの勝手口」の受講生たちで福島を訪れた。写真は福島県富岡町夜ノ森周辺。

2. 3.11を振りかえる


櫻井:では3.11のことを振り返っていきたいと思います。木村さんは福島県の大熊町で被災されたということですが、当時どんなことがあったのかお話しして頂けますか。

木村:私の自宅は大熊町の中でも事故を起こした(福島第一)原発から南に大体3,4キロくらいの場所に自宅がありまして、海沿いだったんですね。海岸から100mか200mくらいの場所に自宅があって、全部(津波で)流されます。その時私自身は隣の富岡町、自宅から6キロぐらいの場所なんですけれども、富岡町の養豚場で会社員として働いていて、そこにいました。そこが本当にすごい状況だったんですよ。建物がすごく古かったので、それが倒壊するんじゃないかというぐらいすごい揺れて。幸い倒壊はしなかったんですが、豚舎内の床板が落ちちゃって。いわゆるピットっていう糞尿するところですね。そこに豚が200頭ぐらい落っこちちゃって、それをすくい上げる作業を総出でやっていました。その途中でもう停電してしまってテレビも見れない、情報が入ってこない中で事務所にいた上司が「ラジオで3mの津波が来るって言ってるぞ」って伝えに来てくれて、私はそれで安心しちゃいました。

櫻井:3mの津波。

木村:そう。それでそれ以降の情報が入ってこなかったんですね。もう聞いてる余裕がなかった。3mで安心したっていうのは自宅が、海抜が7mくらいあるんですよ。じゃあうちは大丈夫だなと。安心して仕事を続けました。ところが夕方5時ぐらいですかね。一段落して自宅に戻ったら(津波に流されて)もう何もなかったという状況ですね。ただ家はなくなっても家族が流されてるとは全く思わなかったんですよ。だからその時はむしろ感動してました。いやぁ津波ってすごいなぁって。その後、町内の一番大きい避難所になっていた総合体育館に長女と母親はいたんですね。で、母親からうちの父親と嫁さんと次女の汐凪(ゆうな)がいないって話を聞いて、それでも津波(に攫われた)って思わないんですよ。なので、何ヶ所か避難所を探して歩きました。だけど結局いなくて自宅に戻ったら、当時飼ってた犬がリードをつけた状態で裏山から走り下りてきたんですね。その犬が砂だらけだったんですよ。津波をかぶってるんですね。それを見たらもうね、家族3人津波に流されたと思わざるを得ないですね。その晩真っ暗な中、探して歩いたんですけど見つからなくて。次の朝には(原発事故による)避難指示が出てしまって、捜索ができないという状況になってしまいました。

実際に大熊町を襲った津波は12~13mとも言われる。浪江町の請戸小学校は1階部分が流されてしまった。

実際に大熊町を襲った津波は12~13mとも言われる。浪江町の請戸小学校は1階部分が流されてしまった。


櫻井:ありがとうございました。続いて中島さんにも伺いたいと思います。3.11の時は東京にいらっしゃったと思うんですけど、何をしていましたか?

中島:木村さんの後に話すのも忍びないというか、被災された方とは様々な距離感が違うとは思うんですが、僕は3.11を大学3年生から4年生の間の春休みに経験しました。東京の恵比寿で「渋家(シブハウス)」というアート系のシェアハウスをやっていて、朝まで飲んでそのままこたつで雑魚寝するような日々を送っていました。

そうしたら、3.11の当日、まぁ揺れて。驚いてみんなで本棚や食器棚を押さえ、家の外に出ると近所の人たちもバッと出てきて、「どうなっちゃうんだろう」「すごいね」「大変だ」と口々に言い合っていました。また、電車が止まって帰宅できない人がいたので、その晩はシェアハウスを開放したんです。Twitterで「帰宅難民の方、泊まって寝れます」と呼びかけたら結構人が来て。少しでも何かできることはないかと思って、みんなで大量のカレーを作って振る舞いました(笑)

そのうちに原発が危ないという情報が飛び込んできて、津波の様子などもテレビで映され、物凄いことが起きてしまっているなと、ただ呆然とニュースを眺めることしかできませんでした。その意味で3.11は自分の中ですごく大きな出来事で、それ以降、地震や原発事故というものをどう捉えるか、それに対してどう向き合っていくかというのが、僕にとっての2010年代のテーマの一つになりました。

2011年3月11日の新宿駅。電車が止まり帰宅困難者が多くいた。(出典:Wikipedia)

2011年3月11日の新宿駅。電車が止まり帰宅困難者が多くいた。(出典:Wikipedia)

櫻井:すぐに渋家を開放したり、何ができるか考えていて素晴らしいです。

中島:ただ、当時多くの人がボランティアに行ったり、現地でいろんなアクションをしたりするのを見ていたんですが、まだやっぱり大学生だったので無力で、お金もないし免許もなかったから、現地に行くという行動にまでは移せなかった。物理的な距離を縮められずに、すごく内省的になっていましたね。

櫻井:なるほど。ありがとうございます。私も3.11の時は東京にいたんですけど、当時アルバイトでビルの7階にいました。結構古いビルだったのでかなり大きく揺れてすごくびっくりしました。パソコンが倒れないように抑えたりして、すごく怖かったです。その後(中島さんが)おっしゃったように電車が止まって帰れなくなったので、会社の仮眠室に泊まることになりました。その後コンビニにご飯を買いに行ったんですけど、すぐ棚の中のものがなくなっちゃったりして。

中島:ちょっとしたパニックでしたよね。

櫻井:そうですね。その頃家族のことや仕事もあまり上手くいってなくて、ただでさえ色んな悩みがあった時に震災が重なって、精神的に参ってしまいました。そしたらだんだんお皿が洗えなくなっちゃったんですね。どうしてお皿が洗えないのか自分でもよくわからなくて、3週間ぐらい洗ってないお皿が積みあがっていきました。自分でも汚いから片付けたい、ゴキブリが来たら嫌だと思ってるんですけど、どうしても体が動かなくて。そのうちだんだん起きれなくなってきて、3月の終わりぐらいに病院に行って「3週間お皿が洗えないんです」って言ったら「うつ病です」って言われました。日常生活が2週間以上送れないとうつ病って診断になるそうです。

中島:本当に震災がトリガーになって、3月中にうつ病という状態に落ち込んだんですね。

櫻井:元々少し前からプライベートのことで悩みがあったんですけど、それに追い打ちをかけるような形で震災が来てしまったという感じですね。

トーク風景


3.当事者とは誰か


櫻井:木村さんは震災当時福島にいて、家族を亡くされたり家が流されてしまった「当事者」、「被災者」という立場です。一方、中島さんは震災関連の活動をする時にいつも「非当事者のアーティスト」という言い方をしていますよね。

中島:現に被災した方々がいるわけで、わきまえながら関わっていきたいという気持ちはありました。なので、距離感にはすごく敏感になってましたね。事故や災害に対しての距離感を意識しないと、時に人を傷つけてしまったり、ある種の暴力的な振る舞いをしてしまうんじゃないかという部分は、今でも強く意識しています。

櫻井:「被災者」や「当事者」の話をする時にいつも自分の立場ってどうなんだろうって考えます。私は3.11の時は東京にいましたが、東京のほとんどの人は、多少揺れたけど自分のことを「被災者」だと思っていない。「被災者」というと大体東北の人のことを指すことが多い。 だから私は(東京にいたから)「被災者」ではないのかもしれないけど、震災の影響を受けて人生が180度変わってしまうような経験をした。なのに東京で3.11で傷ついていると言うと、東京だから大したことなかったでしょって言われてしまう。かといって被災地に行って自分も傷ついたんだって話をしようとしても…

中島:なかなか出来ないですよ。

櫻井:そう、もっとひどい目に遭ってる人を前に、私も東京で傷ついてたとはとても言えない。自分の話を聞いてくれる人がどこにいるのか悩んでいました。

中島:病気が治って家から出れるようになって3年経って、改めて問題意識があるんですね。

櫻井:でも昨日木村さんと話してたんですけど、「福島の人(当事者)同士でも傷ついた話や深い話をするのはなかなか難しい」とおっしゃってました。本当は東京にいるから傷ついてないとか福島にいるから傷ついたとか、そういう場所の問題ではなくて、話す相手とコミュニケーションがとれているかの問題なんじゃないかと。深い話ができる関係が築けていれば話ができるのに、それを東京だからとか福島だから、当事者だからという理由で言えなくなったりするのは本当はおかしいことなんじゃないかと思いました。

トーク風景

木村:被災地でもそういう空気はすごくあるんですね。特に大熊町って津波で犠牲になった方って少ないので、他の町民と思いを共有しづらい。さらに原発に対していろんな思いの方が立場によって全然違うので、その中で正直に、皆さんの前で今日お話ししてるようなことを、他の町民の前でできるかっていうとなかなか難しいんですよね。そういう空気はすごいあります。原発によって奪われてきた町でもあるし、原発にお世話になっていた、東京電力にお世話になっていたという気持ちを持ちつつ、やっぱりあの震災は駄目だったよねってことを言えないで抱え込んでいる人も恐らくたくさんいると思うんですよ。 だから自分たちの活動の中でそういう人たちの声を聞く、引き出す。例えば東京から来られてね、そういう方たちの声を聞いて、何度も通ったうえで、実は私もこういう経験をしていてしんどかったんですよみたいな話をされたら、すごく共感してくれると思うんですけどね。そういう関係を築くってことは大事かなと思うんです。表現の方法も色々あるので、大熊未来塾っていう団体を立ち上げて伝承活動をしているんですが、目的は今回の災害を1000年後まで伝え続けていくってことなんです。なんで1000年後かっていうと、貞観(じょうがん)地震とか、慶長の(三陸)大地震とか、皆さんご存じですかね?

櫻井:私は貞観地震はちょっと調べましたが、ほとんど知られてないですよね。

中島:聞いたことはありますが、恥ずかしながらいつの地震かまでは覚えていませんね。

木村:西暦869年、平安時代に貞観地震が起こって、慶長の(三陸)大地震っていうのは1611年にあって、その時に相馬藩(大熊町)も、津波で700人ぐらい亡くなったって記録が残ってるんですよ。それを全然知らなかった。知っていたら家族と大きな地震があった時に津波が来るからみたいな話をできたと思うんですけど。お年寄りなんかも津波なんか来ないって思い込んじゃってたんですよ。それを考えた時に東日本大震災からちょうど1000年後まで繋いでいきたい。だけどそれをどうやって繋げていけるのかっていうのが課題ですね。

三陸沖周辺で起きた地震の推定震源域(出典:Wikipedia)

三陸沖周辺で起きた地震の推定震源域(出典:Wikipedia)
貞観(じょうがん)地震は福島県の近くで起きている。

中島:まさに1000年単位ですね。確かに記録は残ってるのに、震災や津波の恐ろしさを我々は忘れていたし、もっと言えば考えもしなかった。だから大事なのは、それをどう伝承していくかですよね。

また「当事者」の話ですが、「当事者」という言葉が今のように一般化したのは、やはり3.11以降だと思います。それまで「当事者」という言葉自体あまり一般的じゃなかったはずです。木村さんがおっしゃったように、被災地だってすごく多様だし、その中でも様々な細かい距離や分断、関係性があるのはどこであっても変わらない。結果的に、 「本当に正しい中心」みたいなものは存在しないんだと思うようになりました。


4.関東大震災から100年


櫻井:3.11からもう12年ぐらい経つんですけど、東京ではもう3月11日以外思い出すことも少なくなって、風化が進んでいるような気がします。福島に行くとまだ震災が続いているのに、東京に戻るとみんな自分の生活で精一杯になっている。12年伝えていくだけでも難しいと感じています。

中島:まだたった12年ですからね。

櫻井:9月1日が関東大震災から100年だったんですが、関東大震災はどういう残す工夫をしているのかというと、東京都慰霊堂という犠牲者の方の遺骨が納められている場所があるんです。そこの表現が私はすごく参考になると思ってます。慰霊堂の見た目は仏教のお寺みたいな雰囲気なんですけど、入るとキリスト教の教会のような長いベンチが並んでいたり、天井はイスラム教っぽい雰囲気のデザインになっていて、どの宗教の人も思いを寄せられるようになっているんですね。あと周りに石碑がいっぱい立っているんですけど、それも地元の方、遺族の方、朝鮮人の犠牲者の方などいろんな立場の人の石碑が建ってて多様になっている。そういう関東大震災に思いを寄せている人なら誰でも来ていいという、受け皿の広さみたいなものも、長く残していく工夫の一つかなと思いました。 9月1日に東京には集まれる場所が一応あるんですけど、大熊は帰還困難区域なので集まれる場所がまずないというのが難しいポイントの一つではありますよね?

2023年9月1日の東京都慰霊堂。報道陣や遺族の方、関東大震災に思いを寄せる人達で賑わっていた。

2023年9月1日の東京都慰霊堂。報道陣や遺族の方、関東大震災に思いを寄せる人達で賑わっていた。

木村:そうですね。集まれる場所がないわけではないんですが、新しい役場の庁舎が出来て、その周りに復興住宅が整備されて、商業施設とかが小っちゃいながらあるんですよね。だから大熊町としての3.11の慰霊祭はそこの庁舎の前でやってます。ただ、いろんな考え方があるので仕方ないんですけど、私はやっぱり海に手を合わせたいんですよね。だからその時間(慰霊祭)はそこに私はいないですよ。必ず海に行くので。自宅ですね。そもそも大熊町ってまだ犠牲者に対して手を合わせる場所がないんですね。それがちょっとモヤモヤしてたので2013年に自分でお地蔵さんと慰霊碑を立てちゃったんですけども。未だに12年たってるのにない。昨年やっと隣の富岡町に出来ましたけど、まだまだそういう状況なんですね。これから何か行政側の一方的な考えのもとで進んでいかないようにちょっとね、働きかけていきたいと思ってます。

中島:復興のあり方みたいなものにも、去年久しぶりに福島に行って直面しました。僕が初めて福島に行ったのは2014年頃だったんですが、まず富岡町を見た時に衝撃を受けました。震災から3、4年経っているのに町が依然としてボロボロで、そのまま放置されているような状況でした。それが去年行ってみると、車を降りた時にそこが富岡だとわからなかったんですね。町全体がコンクリートで舗装されたなだらかな坂になっていて、海辺の方では今も重機でガンガン土地を開発している。要するに、全てが更地になっていたわけです。そこに僕は復興の現実と困難を感じました。

2022年8月に訪れた時の富岡駅前。津波で攫われた辺りの開発が進んでいる。

2022年8月に訪れた時の富岡駅前。津波で攫われた辺りの開発が進んでいる。

中島:つまり、富岡がどこでもない土地になってしまったような気がしたんですね。 もちろん被災した状態の富岡は悲惨でした。ただ、それをコンクリートで見えなくしてしまうことで失われるものもまたあるのではないか。そういった部分は震災後10年経っても、いや経ったがゆえにこそ、他にはどんな復興の形がありえたのかなと考えてしまいますね。


5.1000年残すこと


櫻井:関東大震災が100年前で、更に振り返ってみると、さっきのお話にもあった貞観地震というのが1000年前にありました。東北の岩手、福島あたりで起きたマグニチュード8.3ぐらいの地震で、津波も来て3.11に似てる地震だったと言われています。その記録があまり残ってなくて、「日本三大実録」っていう歴史書に少し書かれているだけなんです。ちなみに福島には貞観地震の記録や石碑や言い伝えみたいなものって全くないんですか?

木村:(首を振って)ないです。

櫻井:もう全く聞いたことなかったんですね。

木村:なかったですね。

櫻井:ではその1000年残っていた表現というのはこの「日本三大実録」だけになりますよね。というとやっぱり歴史書は残りやすい、残す形として絵画や彫刻よりも強いってことになるでしょうか?

木村:一般の方が目にしなければ意味ないですよね。

櫻井:確かに。お寺の奥の方にしまってあると忘れてしまいますよね。となると、みんなが見えるような場所に置いてある石碑とか彫刻みたいなものが分かりやすいと思うんですけど、それもやっぱり壊れやすかったりして、1000年残すのはちょっと難しい。

木村:それさえ目に留まらないような状況になってしまうような気がするんですよね。時間とともに雑草だらけになってしまって。そこにあるのは知ってたけど、どういうものかわからないとか。そうなるような気がするので、そこもちょっと工夫が必要だろうなぁなんて思います。

中島:僕が思うのは、いろんなカルチャーやアートが伝承の助力になるんじゃないかということです。というのも、関東大震災のことを自分がイメージできるようになったのは、いろんな作品を見てきたから。
例えば宮崎駿の映画『風立ちぬ』の描写を見ることで関東大震災をビジュアル化できるし、空気感も伝わってきます。関東大震災直後に小説家の横光利一や川端康成が出て来たり、あるいは今和次郎という建築家が出てきたりしました。僕が3.11があった後すぐ関東大震災のことを思い浮かべたのは、そういったアクションや作品に影響を受けて、関東大震災を想像する基盤が自分の中にあったからです。
そして2010年代、3.11以降に東日本大震災をどう作品にして残すか。それぞれの主観を通して、あるいは様々な距離感から見た震災や原発事故を通して、何らかの形でその印象を残すという作品は、多様に、たくさんあった方がいい。それによって後世に記憶を伝えられる手段があるんじゃないかという気はしています。

トーク風景

6.これから何ができるのか


櫻井:どうすれば100年、1000年残していけるのか。過去の事例を踏まえて考えてきましたが、ここからは「私たちに何ができるのか」という話をしていきたいと思います。私が未だに作品のコンセプトに3.11を入れてると「もう古くない?」と言われることがあります。でも私が3.11のことをずっと言い続けているのは、過去に執着してるわけではなくて未来の話をしたいからなんです。 私はこんなに可哀想だったと言いたいのではなく、あなたの番が来たらどうする?という話をしたいんです。木村さんの会社の名前も「大熊未来塾」といって「未来」という単語が入ってます。木村さんのお仕事も語り部とか被災地をアテンドするとか、3.11の昔の話をしているように見えるかもしれないんですけど、「大熊未来塾」は未来を考える場所だからつけたお名前ですよね?

木村:はい、そうですね。さっきも言ったように1000年後を目指すのと、今おっしゃった通り、未来の人が災害時に同じことで犠牲にならないことと、やっぱり考えるのは原発事故なんですよね。使用済み核燃料、核種によっては何億年と残っていくわけじゃないですか。それを最終的に処理するのは自分達じゃないんですよね。でも今、原発を動かすことによって恩恵を受けているのは自分達です。それが生きるためだけではなくて、簡単に言うと楽をして生きていくためにあるような気がするんですよ。そのために犠牲になるのは未来の人間であったり、他の生き物であったりとかね。例えば原発を動かすために必要なウランの採掘場では、たくさんの作業員が被曝してるという現実があるわけですよね。そういうことを知って考えて頂きたい。弱者の人たちが大変な思いをしている上で、自分たちの生活があるってことを。皆さんがどう思うか分からないですけど、そういう思いで繋いでいきたいですね。

櫻井: 中島さんは3.11を経験して、これから未来の災害がやってくる今、災害と災害の間、「災間」を生きているんですけど、次の災害が来るまでにアーティストとしてどんな表現ができると思いますか?

中島:20代の時は未来のためというのは分からないままに、その時の状況の中で自分の考えを作品にしてきたんですけど、それを作れたことはまずよかった。災間ということで言えば、例えば美学校の合宿で生徒たちを福島に連れて行ってみるとか、木村さんのお話を聞いてもらうといった活動も自分の中では大事にしています。今学校に通っている20歳前後の学生たちは、3.11が起きた時にまだ物心のつかない小学生だったりして、3.11に対する実感が薄い。だから僕が青年期に体験した3.11の証言を次世代に伝えることに必死なんです。ひとまず、そういった場や教育が重要なのではないかと考えていますね。

櫻井:木村さんのところにも若い人がお話を聞きに来たりするんですか?

木村:そうですね。去年あたりから大学単位でゼミであるとか、大型バスを使って20〜30人ぐらいで来るっていう機会が増えました。それにしてもまだ全然一部の方達で9割5分ぐらいはあんまりそう考えてない人達。そういう人達に伝えるにはどうするかって言うと、それは来て話を聞いた方々の間に入って頂けると。だから学校ですよねやっぱり。教育機関、学校の先生であるとか。

2022年8月 福島県大熊町を案内する木村さん

2022年8月 福島県大熊町を案内する木村さん

中島:あとはコミュニティですよね。世代をまたいだコミュニティがたくさんあることが大切です。僕のクラスにはアートに興味を持っている人たちが来ますが、3.11はそういう「何かヤバイ作品を作りたい!」と思っているような若者の感性にも届く可能性がある。

語弊を恐れずに言えば、3.11以降、アートの福島への向き合い方は非常に刺激的でした。震災と原発事故についてみんなで議論したり、東北へ行ってリサーチをしたり、展覧会を企画したりと、作家それぞれのアプローチで掘り下げていました。もちろん、それらには身勝手な振る舞いも含まれていたと思います。ただ、それによって復興への多様な息吹が吹き込まれたこともまた嘘じゃない。

僕はそうしたポスト3.11のアートシーンに強い影響を受けたし、自分もプレイヤーとして活動してきました。その当時の感覚を次世代に伝えたいんですね。そこから興味を持つ人が増えて、現地に行って木村さんのような方と出会う可能性が開かれるはずです。

櫻井:木村さんは今後未来に向かってどういう活動をしていきたいと思っていますか?

中島:お伺いした時いろんなプランを語って下さいましたよね。大熊町の中で畑をやるとか、公園にするとか。キウイが自生していたのも印象的でした。

木村:そうですね。ただ、やっぱりなかなか、もっともっと応援してくれる人を増やしていかないと、もう維持していくのは難しいっていうのはあって。ここ2ヶ月も入院してて、あの地域自宅も含めてちょっと手入れができてなかったんですね。今年すごいんですよ雑草が。暑さのせいか。(笑)だから今まで築き上げてきたものが0になっちゃったみたいな。キウイもね、せっかくあるんだから手入れをしてね。販売はちょっと難しいけれども、線量を測ってみるとそこまで高くないので。俺は食おうかなと思ってます(笑)。人には勧めません。そういうそこにあるもので、生活を賄っていく。ご案内したかどうか忘れましたけど、田中さんってお宅の井戸水が自噴してるんですよね。毎分15リッターぐらいずーっと流れっぱなしで水は豊富なんですよ。その水の周りにちっちゃいコミュニティを作っていくような、そんな場所ができたらいいなと思ってます。

櫻井:コミュニティ作りですね。

木村:それって災害にも病気にも強いと思うんですよ。遮断されてもあそこで生きていくためのものをある程度賄っていけば、もう何も必要ないんです。そういう場でじゃあこれからどうしていきましょうかみたいなことも一緒に、人に聞けたり考えたりできる。こっちが一方的に伝えるだけじゃなくて、一緒に何かを模索していくような場にね。原発から4キロぐらいの場所でやっていけたら面白いんじゃないかなと思います。

櫻井:私も一方的じゃなくて、一緒に考えて当事者意識を持ってもらうのが大事だと思います。今回の展示では鑑賞者が参加する作品がいくつかあります。絵画だと絵を描く人と見る人が完全に分かれていて、鑑賞者は受け身になってしまいがちです。そうではなく、自分が関わる場所や作品を作ることによって、より一層自分ごとのように考えてもらうことが、インタラクティブなアートなら出来ると思っています。そういう作品をもっと作っていきたいですね。


7.あなたを揺らす突然のこと


櫻井:長い間お話を伺ってきましたが、ここで質疑応答の時間とさせて頂きます。何か質問や感想などあれば。

トーク風景。質疑応答

・災間を生きているって言われて、言われてみればそうだと思った。一度災害が終わると安心してしまって次に何かを残そうとか、そういうことを自分は何もやってないなと思った。

・日本で生きていくために考えなきゃいけないことに直面したと思った。

・そういうこと(震災や日本で生きることなど)を意識してない人にこの話を聞いてもらいたかった。



中島:この個展のタイトルは「あなたを揺らす突然のこと」。「あなた」という2人称を入れたことには意図があるんですよね?

櫻井:そうですね。本当だったら自分の感じたことを作品にすると「”私”が揺らされたこと」とか、そういうタイトルになるはずなんです。それを敢えて「”あなた”を揺らす突然のこと」って言っているのは、私の話をしてるんじゃなくて、あなたがこう言う(震災で大変なこと)が起きて、自分の心や固定概念を揺さぶられたらどうする?という意味で「あなた」をタイトルに入れました。さっきも話しましたが、私が過去の話をしている時はいつも未来の話をしているということを踏まえて作品を見て頂けると嬉しいです。あともう1つ展示の話をすると、今回新宿を会場にしたのは、関東大震災の時に東の方、江東区とか墨田区は結構被害がひどかったんですけれど、新宿とか西側の方は比較的被害が少なかったんです。

中島:山の手は被害が小さかったんですよね。

櫻井:そうなんです。それで東側の被害に遭った人達が新宿とか西の方に避難していって、今のような人が集まる大都市に発展するきっかけになった。関東大震災というとネガティブな歴史だと思いがちなんですけど、新宿にとっては震災が街が発展するきっかけになったんです。私もこれからは新宿のように前向きな捉え方をして、つらい経験をしたからこそ作れる作品があると思いたい。そう思って新宿を会場に選びました。そういう背景も踏まえつつ、作品を見て頂けると嬉しいです。

トーク風景

中島:最後に、講師として櫻井さんを1年間見てきたので労いますと、眼科画廊の大きな空間で個展を成立させていて、僕もすごく嬉しいです。武蔵野美術大学では映像を学び、うつ病から治りつつある中で、キャンバスを揺らし絵の具を流して作るフルイドアートを手がけたり、一緒に福島へ行ったりしながらテーマを定め、バラバラだったピースを形にしていく様を見てきました。実際、合宿以降に彼女自ら福島へ通ったり、木村さんとやり取りしたりと活発に動いた成果が個展に表れています。これまでのキャリアが乗っかっている、筋の通った主題のある作品群が、しかもいろんなメディアで表現されていて、素晴らしいと感じました。

櫻井:ありがとうございます。ではそろそろお時間なので、最後に木村さんと中島さんから聞いている方に何かメッセージなどありましたら。

木村:そうですね。まず、お二人のような方が、外に向かって表現していただけるってことは繋いでいく、伝え続けていくっていう意味で、非常にこれから大きくなってくるんじゃないかなと思っています。そこに感謝したいのと、最初に言われてたと思うんですけども、みんなが関係ないことではないんですよね。だからなかなか会ってみないと自分事になるっていうのは難しいんですけども、少なくとも皆さんが関係していることだっていうことを頭に入れながら、都会でも生活していただければなと。それは災害もそうだし、原発事故もそうです。何かずっと考えているっていうのはすごいストレスになると思うので、頭の片隅に置いていただいて、何かの際に引き出して役立てていただければなと思います。

中島:僕は作家として都市を主題の一つにしていますが、思い返せばそれも震災以降です。被災地へ行って、歴史も含めてその土地について深く考える。このように3.11から、日本のアートシーンではサイトスペシフィックな考え方が地に足をつけた形で広まりました。いわば僕は福島を足がかりにして、自身の根拠地である東京について思考できるようになったんだなと、今日はそんなことを思い出しました。

櫻井:ありがとうございました。時間ですので、今日はこれで終了にしたいと思います。お二人ともどうもありがとうございました。

木村 中島:ありがとうございました。

トーク風景

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